2025.7.28 (月)
富栄の『雨の玉川心中』を思い出した。
最初読んだ時は人が感情のさなかにいるときの文章特有の面白くなさを感じたのだけれど、だんだんとそういうもののリアルなトーンの良さというものを感じはじめた。
締め切りのない日記というもののリアルな切迫感、きっとそれは生きることに対しての現実の緊張感、本物の、存在の死がちらつくような。または恋愛特有の焦燥感、そういう現実の張り詰めた息のできないような感じこそが文学とはまた別の、どこか女性の文章のよさというものに直結して感じる。文学と散文の狭間のような、。
ああ、そうか。最近はどれもこれも、狭間に生きる人になりたいなあと思うことが多いなと、。特にこの前参院選があったばかりなので、リベラルと保守の間のこととか、陰キャと陽キャの間とか、娘と母の間とか。そういう、どれもこれも。
リベラルと保守の話で言えば、この前母と電話した時に、母がやんわりと保守政党を支持していたことが発覚し愕然としたっけ。
まだ重症で無いだけ安心したのだけれど、やっぱり私の育った環境は保守寄りの環境だったのだな、と。(実家に帰ったときに父が保守政党を支持していることがなんとなくわかっていたので、父は母よりも圧倒的に重症だと思う。)
でも考えて見れば、地方の田舎なんてどこにいてもみんなそんなようなものだし、考えてみれば子育てしている家庭なんてそりゃ保守に近い立場になるだろうと思ったりして。
しかし、母は保守政党に対してがっつり支持しているわけではなく、母の主張ととしては税金を下げてほしいというのが一番で、あとは議員の報酬を下げてほしいとか望んでいるのはそんな感じのことで、要するに「なんか変えてくれそうな政党」というのがもっとも支持する理由だったように感じる。
もしかするとあの世代は「何か変えてくれそう」なものに期待する癖があるのかもしれない。あの世代、というか、あの世代の女性には、というか、母、というものは。それは政治だけではなく、娘である私に対してもそうだった。「今の私をどこかへ連れて行って」という期待を持って子を産む。ひいてはそれを見越して結婚したりする、相手を愛する、恋をする。私の生きれなかった人生を生きてくれる、連れ出してくれる存在を産むための結婚のような。以前、江藤淳が「母の唯一脱出口が結婚だったのだ」(引用元不明)と云ったように。
そういう期待(希望)を他人にかけてくる。
反対に娘の私たちは「自立」がいつも念頭にあって、もしかするとずっと思っていたあの、「自立!」「自立!」のスローガンはその母からの期待から逃げるための、自分を守るためのものだったような気もしてきた。
「自立」を掲げる理由といえば、
・誰にも頼らない
というケジメがあって、それは逆に密な関係性がそれだけ蔓延しているから思和なければならないことなのかもしれない。
親子関係だけではなく、恋人関係とか、(…でもこれって私だけの問題?)
私が依存体質なだけ?
ただ、それはそれでアイデンティティといえばアイデンティティであり、自らどう直すかということだけが重要な話で。
私は自分の興味のあることだけにしか興味がわかないし、もし興味が湧いたときは沸いた時で、その時の引きつけ力が逆に半端なくて一瞬で依存してしまう、という性質を持っているのは多分本当で。
私自身がそういう体質にあるのなら、それは「自立!!自立!!」と自分の中で叫ぶことは仕方がないと言える。
治そうとする人は、境界人だ。