2025/08/08(金)

 

 

夕飯を作ってsの帰りを待っているPM9:50。

服屋にとって年に2回の忙しい日々、秋冬の立ち上がり二日目である。

店の中でもたくさんの服を売るSは数日とてつもなく忙しい日々を送ることになるだろう。新人の私は今日は休みをもらった。

初日だった昨日、シーズンの関係のないブランドに配属されている私にとってはあまり忙しい日ではなかったのだが、それでも朝から夜遅くまでの通しシフトにより少々疲れが溜まり(疲れている、というか時間があっという間に過ぎる。)、そんな時「ああ疲れた」という気分はそこまで起きなくて、なぜか「ああ、夕飯何作ろう」という気持ちが頭の中で湧いてきて、店が閉まってからの掃除などの業務をしながらずっと夕飯のことを考えていた。

Sは忙しすぎて何処かで食べてきてしまうかもしれないとも思ったが、帰りが日付を回る可能性もある中で空いているお店も無いだろうからもし食べなかったとしても明日のお昼に持って行けるような料理を、、なんてことを考えながら近所のスーパーまで歩いて、結局焼売を作ることにした。

こういうこと(一人だけではない食卓の献立を考えること)が幸せだと感じる。

それに私は、疲れている時に誰かのことを考えられることを楽しんでいる、と思う。

家に帰ってきてエプロンをつけて、ひき肉をこねて玉ねぎを混ぜて、焼売の皮にに包んで、それを30個分バットに用意してからシャワーを浴びる。

そうやってお風呂から出て髪を乾かそうとしたタイミングでSから帰ります、と連絡があり、そこからとうもろこしを茹で、焼売を蒸籠に移す。そしてSが帰ってきたタイミングで蒸し始める。

仕事。

仕事をすることが人間にとっての唯一の恩寵であると云ったのは誰だったか。

その仕事の疲れは、仕事のあとに誰かと食べるご飯の時間に捧げられているのではないかとさえ感じる。

全てが存在を肯定する行為のようだ。

生きること、存在することが、無意味であることに真正面からそのことだけを考えるということはできない。

こうして「意味」のようなものを社会や関係性の肩を借りて肯定してしながらでないと実はできないものなのではないか、と思うのである。ほかのことと同じで、そのことだけをしていればできるようになるわけではない。

私は自分の力を信じていない。

生きるためには、人や環境の力を借りる、そうしてきぶんを分散させなければならない。

忙しいことはありがたいこと。生きることに必要なことである。