休憩室にいると「そんなに何を書いているの」と。よく話しかけられる。
そうして初めて自分が何かを書き込み続けていることに気づいた。手帳だったり、付箋だったり、確かに私は隙さえあれば何かを書き留めようとする。
何を書いているの、と聞かれたら、とにかくなんでも、と答える以外の返答が思い当たらない。仕事のこととか、家に帰ったらすることとか、買わなければならないものとか、とにかくなんでも。
なんなら、「シャワー」とかそういうことまで書いてある。シャワー、とは家に帰ったらシャワーを浴びる、という意味だ。そんなの、書き留めなくても毎日やることなのにそういう書かなくてもいいことさえ全部書き込んでいる。
というか、書き込んでいる、というより、気持ちとしては、書き込ませてくれ、の方が近いのかもしれない。
思い返してみれば、私の書き込み癖が始まったのは数年前のとある時期、精神的に落ち込んでいた時に始まった。気付いたら誰の声も光も届かないような井戸の底に落ちていて、どこかでそれを自ら望んでいたこともあって抜け出すのに非常に時間がかかってしまった。正直、今でも抜け出したのか、どこが出口といっていい場所なのか定かではないけれど。
鬱というのはいろんな苦痛に雁字搦めにされるなかで、とりわけ「暇」というものに苦しめられるものだと思う。
何もすることができず、何もできないとなるととにかく時間が経つのが遅い。
今でも鮮明に覚えているのは、ふと見上げた時計の針が午後6時を指しているのを見て、「今日は遅くまで起きれた」と思って嬉しくて泣いたことがある。いつもはとにかく寝ることしかできないため6時には寝ていたからだ。本当にそれくらいできることがないのだ。
その時に始めたのが睡眠記録だった。
自分から主体的に何もできないのなら何かあったことを書き写すこと、記録することから始めようと主治医に言われて始めた。
実際にその時は水を飲むこと、トイレに行くこと、寝ることしかできず、何かを書き留めるといってもその3つの記録を撮ることしかできなかったのだ。
最初は本当に簡単な入眠時間と起床時間の記録から。
それを一週間続けると、自分の記録が7つ積み重なって、何もできなかった自分に初めて続けることができたとという実感が生まれた。
そこから少しづつ、記録することを増やしていった。
飲んだ薬の量、その日の体重、何回泣いたか。
そこから少し頑張って、そのひの気分と体調についてを点で書き込んで、前の日と繋げるようにして、波形で自分の状況が把握できるようにした。悲しい気持ちになった時にどんなことを思ったかも記録した。反対に、嬉しい気持ちになった時は何が嬉しかったかも記録した。本当に頑張った。思い出すだけで泣いてしまう。
それでなんでも書き込むようになった。
書き込んでいると、私が何かをしている、できていることが大きく嬉しい。
何もできなかったのだ、全部が真っ白で、かつての私は入眠時間と起床時間だけを繋いだグラフだったのだ。それが文字で、びっしりとスケジュール帳を埋められるほど生きれるようになったのだ。いや、前も生きていたのだ。それを実感できるようになったのだ。
私はずっとその中にいた。
手を動かして、そのことを感じることはできた。
何もないわけではない。生きている限り、あったことを記録し続けることはできる、それに何もなくても、考えていることを予定として書き込むことはできる。
それが今の自分を作っている。
どこにいても、やることは同じなのだ。
とにかく、今できることをする、なんでもする。
とにかく手を動かす、動かして記録する。予測する。
それで私の時間は経っている。